人は人の話をびっくりするほど聞かない
本当に人の話を聞いている人って少ないと思う。
俺が話を聞くことが好きだから聞き役に回りすぎちゃうってのもあるかもしれないけど、まぁ~話を聞かない人って多くないですかね。
話を聞かない人に警告したいんだけど、聞いている人が会話の主導権を握っているからね。
自慢話ほどつまらないものはない
話している人は自慢話とか武勇伝などの自分の話をして、皆にすごい!って思ってもらえていると感じているかもしれないけどさ。
聞く人はそんなこと思ってないし、なんならつまらないなぁ早く終わらないかなぁって思っていることが多いよ。周りが思いっきり気を使ってるだけ。
聞く人がイライラして聞くのをやめちゃったら、自分の話しかしない人は終わりだからね。その会話が聞いている人次第でどうにでもなっちゃう。
そういう意味でも、人の話を聞かないで自慢話ばかりするのはどうなのかと思う。
人に認められたい認められたいって承認欲求おばけになってる気もする。
話題ジャック
あとよくいるのは「話題ジャック」する人ね。
これは俺が作った言葉。
例えば普通の会話だと
ぼく「足怪我しちゃった」
相手「あら、なんで?」
ぼく「自転車で転んだんだー」
相手「補助輪つけてなかったの?」
会話の内容はつまらないけどまぁこんな感じになると思う。
けれど「話題ジャック」をする人はこう。
ぼく「今日足怪我しちゃった」
あいて「え、そうなの? 私も足怪我したときこうこうこうだった!」
ぼく「それは痛そうだね」
相手「ほんといたかった! もう転びたくない!」
俺の怪我した話からいつの間にか相手が怪我をした時の話にすり替わっているからね。
これって話を聞いているようで聞いてない。
怪我のトピックで「相手」が経験した話をしているだけ。
会話の中で数回「話題ジャック」をしてしまうのはわかる、けれど頻繁にされたら完全にこちらからのインタビューになってしまう。
結局人は話を聞いてほしい
結局人は話をしたい聞いてもらいたい欲求があるんだろうね。でもそんなに他人に認められようとする必要ってあるのかな。
背中で語ったほうがかっこいいと思う。
まぁ俺はそんな話でも聞くのが好きだからいいんだけどさ。
老後は孤独なのか 弁当屋さんのおばあさんの場合
老後の孤独や寂しさなど不安を煽るような声を最近よく聞く。そんなわけで、実際俺も多少漠然とした不安がうまれていた。
けれどたまたま話した弁当屋さんのおばあさんは不安そうではなく、イキイキしているように見えた。
なぜなのか?
若い人が多く来る店
その弁当屋さんの近くには大学があるため、毎日学生が多く訪れる。そのためおばあさんは多くの学生と話す機会があるそう。
学生と話す機会があるとなぜ良いのか?
高齢者ばかりの場所だと、どこを怪我した病気した、などの暗くなる話ばかりで心配になることが多いらしい。
確かに高齢者の怪我は、学生の怪我に比べても深刻さが違う。あまり笑い飛ばせるものではないように思えてしまう。
それに比べ若い人の話は、高齢者の話に比べ明るく楽しくなるものが多いらしい。
ただいま!と言って店に入ってくる学生や、ハイタッチを求めてくる学生などもいるみたい。
おばあさんは言う「気持ちは全然若い頃と変わらないからねぇ」。
確かに言われてみればおばあさんはすごく若々しい。毎日学生と接することで、自然に若々しくなっているのかもしれない。
年齢にこだわる必要なんてない
俺は基本的に同年代の人と関わることが多いが、あまり年齢は関係なく同年代ばかりで集まる必要なんてないのかもしれない。
むしろ多くの年代の人と関わるために、色々な世代がいるコミュニティに能動的に参加していくと良いのかも。
もちろん話しやすい人、話しにくい人がいるのは当たり前だが、それは年齢に関係ないはずだし。
老後じゃなくても俺は昼夜逆転生活をしていた頃は孤独だったわけで、結局その人次第なのかもしれない。
孤独は耐えられないものではないけれど、孤独じゃない方が楽しいに決まっている。
どうせなら楽しい方が良い。
イライラしてる時間ってムダ イライラを笑い飛ばしたい
俺は人間関係でイライラすることが多い。
関係を断ち切れず毎日顔を合わせる人ではなく、ほぼ関係を断ち切ったとしても思い出してはイライラしてしまうこともある。
物理的に会うこともないし、ほぼ存在してないバーチャルの人にイライラしてるようなもの。もはや誰の何にイライラしてるのかすらわからない。
これって初対面のもう二度と会うことがない人にイライラしたり、テレビに出ている芸能人にイライラしている人とも似ている気がする。
どちらが悪いではなく、ただ単に意見が違うために生まれるイライラ。
楽しく生きるためにはイライラしている時間がムダ
イライラしてもしなくても結果は変わらない。本当にどうでも良くてムダな時間だと思う。
小さなことを気にせず、笑い飛ばせるくらいの気持ちがあればもっと楽に生活できるはず。
それを頭で理解することは難しくないはずなのに、やっぱりイライラしてしまう自分がいる。
自分で自分の機嫌を整える
当たり前だが、人の考えや感情をコントロールすることなんて不可能なわけで、まずは自分の感情をコントロールした方が早いよね。
例えバカにされたとしても、自信があればあまり関係ないし、どうでも良いって思えちゃう。
幼稚園児に理不尽なことを言われたり、バカにされてもイライラしないのは、幼稚園児から言われもほとんど自信を失わないため。
幼稚園児に何を言われても、笑ってすませることができる気がする。
次から自分をイライラさせてくる人がいたら、幼稚園児だと思って対応しよう。
覚えたての言葉で煽ってくるなぁって可愛く見えるかもしれない。
天才タンバリン芸人GONZOから学ぶ生き方
スーザン・ボイルやポール・ポッツといった歌手を輩出した、世界的に有名なオーディション番組「Got Talent」。
この番組は知っている人も多いはず。
その「Got Talent」のアジア版「Asia’s Got Talent」に2015年GONZOさんが出場し、タンバリン芸で会場を沸かせていた。
2015年に放送されたもので2年も前のことだが、俺は衝撃を受けた。
言葉で説明するより動画を見たほうが早い。
Gonzo: Asia’s First Tambourine Master | Asia’s Got Talent 2015 Episode 1
この動画は現在約500万回再生。つまり500万回動画がクリックされたわけだ。
どれだけの人を笑わせたのだろうか。
会場はGONZOの世界
会場は完全にGONZOの世界でスタンディングオベーション。俺もなにがおもしろいのか説明はできなのだが、なぜか笑ってしまう。
もう彼は世界のGONZOと呼ぶべきだろう。不思議なタンバリン芸によって世界へ進出してしまったのだ。
この結果は、GONZOさんが人生をかけてタンバリン芸に挑んだからこそだと思う。
過去に「爆笑レッドカーペット」や「笑ってはいけない」などにも出演してたみたいだし、長い間タンバリン芸を続けていたはずだ。
そして今現在もyoutubeのチャンネルを開設し、タンバリンのレクチャー動画などを投稿している。
タンバリン芸への情熱が凄まじい。
バカと天才は紙一重
バカと天才は紙一重というけれど本当にその通りかもしれない。人生をかけてタンバリンやる勇気。この勇気は俺にはない。
俺がタンバリンを見たとしてもここまで自信をもってタンバリン芸をしようとは思わない。もし仮にタンバリン芸に人生をかけようと思ったとしても、自分の中の常識がそれを止めてしまうだろう。
けれどGONZOさんを見ていると、人生なんでもアリなんだと思わざるを得ない。俺が考えている常識は常識ですらないのかもしれない。
彼は天才だ。
「普通」の人なんていない
1ヶ月の人と会話をしない期間が終わり、その反動なのか多くの人と話す機会があった。
そこで感じたことがある。
「普通」の人なんていない。
当の本人からすると退屈で「普通」の人生なのかもしれないが、それぞれに人生ドラマがあり、俺からするとどんな人の人生も興味深いものだったのだ。
逆に「普通」であることの方が稀だろう。
これは学生時代に皆勤賞を取った人の数を考えればすぐにわかる。恐らくごく少数だけが皆勤賞を取っていたはずだ。
学校に行くだけの「普通」のことでさえ困難なのだ。
そんな「普通」のことを少数の人しかできないのなら、その時点でもう「普通」ではない。
それならば、「普通」になろうとすることは間違っているんじゃないかとすら思う。
もっというと、人と違う人間になろうとすることすらも必要のないことだろう。
すでにほとんどの人が、人と違うオリジナルなのだから。
レールに乗っかろうとする必要もないし、無理に道を開拓する必要もない。
気づいたら勝手に道ができているような気がする。
自分と他人を比較するなんて時間の無駄。
人を僻んでバカにすることで優越感に浸るのなんてもっと時間の無駄。
人は人、自分は自分。
自分の信じた道が自分にとっての正解なのかもしれない。
適当でいいや。
1ヶ月くらいならほぼ誰とも話さなくてもなんとかなる
最近俺の人と話さない記録が5週間となった。(コンビニの店員さんとの会話は除く)
今はもう人と話すことでその記録の更新は止まったが、自分の中での最高記録だった。
割りと記録を伸ばしたなぁと思うが、今となってはなんとかなるもんだなぁとも思う。
俺の人と話さない約5週間を振り返ってみたい。
1週間目
1週間程度ならば意識しなくても、気づいたら経過している。
特になにも気にせずいつも通りの生活をしているだけで、いつの間にか1週間経っていた感じ。
よほどのさみしがり屋でない限り、大きな苦痛はないはずだ。1日だろうと1週間だろうとそれ程大差ないんじゃないかな。
まだまだ余裕がみられる時期。
2週間目
この時期になると少し不安になってくる。
人と話せていない孤独感はもちろん。日本語での会話のスピードについていけないかもしれないという不安。
そんな不安から、今日のできごとをシャワーで呟いたりしていた。
効果があるのかは不明だし、そんなことをするくらいなら会話すりゃいいんだけどね。
3週間から4週間目
この時期になると2週間目に出てきた小さな不安が消え、人と会話をしない生活に慣れ始める。
そして、ただ時間を潰すだけの毎日。
やらなければいけないことが溜まっているのは知っているが、動く気になれない。
もう誰とも話さずにボーっと生活することが習慣になってるのだ。
「やらなきゃなぁ~」
「でも今日じゃなくて明日でいいやぁ」
毎日がその繰り返し。
どうしようもない時期だ。
さらにこの時期は自分の限界を知りたくて、会話をしない記録を伸ばそうというふざけたことを思った時期でもある。
5週間目
そろそろやばいと思ってくる。
さみしさは特に感じなかったが、この先もう社会生活をおくることが難しくなるのでは?と本気で思った。
そのため、この頃になると1人でフラフラ出かけたりするようになる。人と会話をできるような環境に自然と近づこうとしていたのかもしれない。
そしてフラフラ出かけることを続けていると、気づいたら人と会話をしていた。
ここで記録の更新が止まったわけだ。
その後
ずっと会話をしていなかった反動なのか、1回人と話す機会があると、続けて多くの人と会話をするようになった。
もしかすると以前より社交的になったのかもしれない。
5週間の話さない期間があったことで、会話をしない生活にも慣れることができた上、会話の楽しさを再確認できたのだ。
1ヶ月くらいならほぼ誰とも話さなくてもなんとかなる。
なぜ三日坊主になるのか理由を考察
俺は継続することが苦手。
小学生の頃の宿題はいつも当然のようにやっていなかった。
勉強が嫌いだからというわけではく、授業は楽しく受けていた。それなのに宿題はやる気が出ない。
授業のように強制的に勉強する場所であれば勉強をするが、自力で毎日継続して勉強をすることはなかったって感じかな。
けれどそんな俺でも今は毎日継続してることがある。
食事。睡眠。トイレ。歯磨き。スマホ。
これらをやらない日はないと思う。
毎日やって当たり前だろって?
いやいやそうなんだけれど、不思議だと思わない?
宿題は毎日できないのに、歯磨きなどは毎日できる。怠け者の俺でも三日坊主になっていないものがあるのだ。
歯磨きと同じようなモチベーションを持てばどんな人でも三日坊主を防げるのでは?と思ったわけ。
そんなわけで、なぜこれ毎日やるのかを考えてみると、共通点が見えてきた。
その行動をすることで、短期的にリターンがある。
つまり行動したらすぐに結果がでるものは続けられる。
歯を磨かないと口が臭くてストレス。不快。
眠らないと眠くなる。
ご飯を食わないと腹が減る。さらに食ったら美味しい。
スマホしないとひま。
このリターンはプラスであろうとマイナスであろうと関係ない。
すぐに結果として帰ってくることが重要。
ブログはやらなくてもすぐには変わらない。
ブログを書くことが続かないのは、書かなくてもすぐに結果が変わらないから。
今日やるのと明日やるのに大きな差がない。だからこそ後回しになる。
そしてずっと明日でいいやの繰り返しで結局やらない。んで気がづいたらやらないことが当たり前に。
1歩踏み出さないと前に進まないのはわかっているが、その1歩が小さすぎて進んでいることに気づけないのだ。
三日坊主にならないためにには
自分で短期的にリターンを作っちゃえば良いと思う。
その行為を楽しむことで、楽しいというリターン。
もしくはやらないことで起こる損を明確にし、自分なりのペナルティを課すとか。
どっちにしろ目先の結果を設けたらいいはず。
もちろん、やりたくないことを継続できても結局嫌な気持ちにしかならんし、楽しみながらやるのがベストだろう。
ただし楽しいことなら毎日続けることができるかと思いきや、意外とそうでもない。
新しい結果がなく、毎日同じ結果しかなければ「飽き」がきて、その熱は冷めてしまう。
毎日アップデートをすることも必要だ。